映画のタイトル通り、南アフリカの民主化を主導したネルソン・マンデラ元大統領が、まだ大統領になる前のアパルトヘイト政策に対抗し民主化運動をしているときに、政府が彼を逮捕し収監(1968年~1990年)された際に、看守として彼と接したジェイムズ・グレゴリーという人の体験談。
グレゴリー氏の手記『さようなら、バファナ(Goodbye Bafana)』を基に制作された映画で、始めは、マンデラを危険な人物で、早く処刑して安全な平和な世の中にすべきと考えていた。そこに、グレゴリーが幼少期に、黒人の親友がいたため黒人が話す「コサ語」の読み書きが出来たために、それに目を付けた上層部が彼に、マンデラをマークするように指示した。
マンデラをマークすると、マンデラの人種の隔てなく自由・平等の考え、温かい人柄に触れるようになり、特別に扱うようになる。そうなると、周囲は黒人贔屓な看守としてグレゴリーに辛くあたるようになり、家族は孤立していく。そのため、グレゴリーは、看守を辞める覚悟をし、辞表を出すが、他の収監所に異動となり、マンデラも、それについていくように移動する。
民衆の民主化の勢いは更に激しくなる。そういう中、グレゴリーの息子も看守の仕事に就き、マンデラと接し、法律についての手ほどきを受け、見事試験に合格になる成績を収めるが、交通事故で死亡する。その辛い時期を、以前同じように交通事故で息子を失ったマンデラから手紙をもらい、更にマンデラに魅せられていく。
そして、1990年2月11日、別れの時。グレゴリーは、マンデラに、昔の黒人の友人がくれたお守りを別れの記念として渡す。そして、マンデラが自由憲章(Freedum Chapter)として著した、次の文章を思い出す。
「それは、平和と友情だ。国家と国民を愛するものとして言いたい、我々は自由を勝ち取るまで生涯かけて戦い抜くだろう」そして、彼は、自由の身になった。1994年、初の議会選挙が南アフリカで行われ、マンデラは大統領に就任する。
マンデラ氏は、収監先でも常にこれからの世の中を作っていくリーダーとしての大きな器をもった人物であり続けたことが映画を通して分かった。大統領の任期は、1994年5月10日 ~ 1999年6月14日のたった5年間だったようですが、もっと長いと思っていました。そして、2013年12月5日(95歳没)。
今年のラグビーワールドカップで、南アフリカは優勝した。その南アフリカ代表の初の黒人主将シヤ・コリシ(Siya Kolisi)氏は、以下の言葉を残している。「われわれ南アフリカ代表は、自分たちの想像よりもずっと大きなものを代表しているんだ。私は自分のことを人種の枠にははめない。人種で自分を規定したら、自分自身と自分の視野に限界を設けてしなうことになるんだ。」幼少期、まだアパルトヘイト政策で、食うや食わずの生活が続いていた彼が、マンデラの遺志を引き継いているのは間違いない。