2023年9月15日~20日の5泊6日で熊野古道 中辺路を巡って来た。
その5泊6日の内容を、以下の内容に分けて公開しました。。なかなか気になっても足を運ばない、運べない「熊野古道」の話なので、興味津々、疑似体験していただいたり、今後の熊野古道への旅行の参考にしていただければ幸いです。
順不同で公開予定です。
16日~20日帰路に着くまでに歩いた距離(歩くことを意識していないときは距離測定はしていない)は、89.9㎞。16日~18日は朝7時から8時に出発して、14時半から16時半まで休憩は道中の水分補給と昼食15分くらい。ひたすら歩き続ける。なぜなら、その先でどんな不測の事態が待っているか分からないので暮れる前に確実に目的地にたどり着くために早め早めに足を進めていました。
15日自宅~20日自宅までの総歩数は、なんと、147,105歩でした。一日平均24,517歩でした。
準備編でも記載しているが、最初は、小辺路(高野山~熊野本宮神社)に挑戦しようと思ったが、あまりにも便の悪いところで、こういった長距離のトレッキングがほぼ初めての私としては、途中断念が許されないため、比較的メジャーな中辺路を制覇することにした。中辺路は、ポイントポイントで、バス通りがあるため、最悪そちらに逃げることも可能なためです。
しかし、会社の休みや未知の体力を考え、中辺路も紀伊田辺~熊野本宮大社までとし、その後の熊野速玉神社、熊野那智神社は、バスなどの交通機関を使っての対応とした。
結果から言うと、良い判断だったと思う。
熊野本宮大社~熊野那智大社をもう9時間くらい歩けと言われても、現実問題かなり足的に厳しかった。
出発前は、まったくの未知の世界に入っていくので、熊も出るのか?など不安も色々あり、モヤモヤした気持ちがなかったとは言えないが、結局、長年気になっていた「熊野古道」へのチャレンジ心が勝った。
こちらも、行けるタイミングで決行して良かった。以下、淡々と中辺路の行脚を紹介していきます。
九十九王子(くじゅうくおうじ)とは、熊野古道、特に紀伊路・中辺路沿いに在する神社のうち、主に12世紀から13世紀にかけて、皇族・貴人の熊野詣に際して先達をつとめた熊野修験の手で急速に組織された一群の神社をいい、参詣者の守護が祈願された。
熊野権現の御子神であるとの認識があり、すなわち参詣者の庇護が期待されたといわれる。
つまり、熊野詣のために作られた神社群で、現在は、その跡地の石碑や、戦えられた神社跡を見ることができる。
薬師如来像と上宮太子(聖徳太子)像を祀っている。平安時代の弘仁7年(816年)、弘法大師空海が熊野巡錫の途中にこの地に立ち寄ったとされている。
天気も良く、気持ち晴れやかに会津川を渡り門に辿り着きました。そこをくぐると長い石の階段が最初に現れ、ちょっと先に行こうかと迷いましたが、きちんと参拝しておこうと頑張って登りました。すでに汗かきまくりました。
藤原定家が田辺から秋津王子に訪れた記録がある。水没、水害に遭い、正確な位置は不明とされる。
住宅地のど真ん中に位置する。小さな社があるかと思ったが、ちょっとイメージとは違った。だが、最初の王子で軌道に乗れ、ほっとする。
須佐之男命が曾志毛里より岩船山(天王の森)に到着し、木種を播いたとの伝承がある。(Wikiより)
左会津川沿いに東南に進んだ北岸に、王子屋敷と呼ばれる田圃にあったと言われるが、場所は昔と異なっている。
ほっとしたのもつかの間。ここの万呂王子を見つけるのに30分くらい無駄をした。道端にあると思い気づかず通り過ぎて、戻ってGoogleマップで位置を確認すると、梅畑の真ん中に位置する。でも雑草が茂っていて見当がつかない。近所の方に声かけて教えてもらったら、途中まで草生を分け入った更に先に隠れて立っていた。写真納めた後お礼をいうと10分くらい立ち話。言い伝えでは、もっと裏山の方に在ったとか。。。聞いてよかった。
左会津川を東に渡った小高い丘の上にある。「熊野道之間愚記」建仁元年(1201年)10月13日条に「ミス山王子」とあるのが史料上の初出。熊野古道紀伊路の道筋が滝尻までの近道として潮見峠越えになったことにより、三栖王子は荒廃した。
長いトンネルを通り抜けてイメージ通りの王子に出会って、安心感を得た。地元の同世代の方がランニング途中でいらしたのでちょっと会話しました。
三栖王子から県道上富田南部線沿いに三栖谷峠を越えて坂道を下った、高畑山の山麓にある。『西行物語絵巻』にも当時の社地の様子が描かれている、
『中右記』に「伊奈波禰王子社」とある(天仁2年(1109年)10月22日条)のが史料上の初見。鎌倉時代末期の『熊野縁起』には五体王子として祀られていたとある。
近所の方に聞き、昔の山越えを選択。ストックが無いと厳しい山道。里に下りてくるとき、犬にほえられまくりで嫌なイメージ。ここで一息入れ、昼食のおにぎりを摂る。王子群の中では重要な位置づけ。
稲葉根王子跡の岩田神社から富田川(岩田川)沿いに進み、一ノ瀬橋を渡った富田川左岸にある。水垢離(冷水を浴びる修行)の場として平安時代から室町時代まで重んじられていた。
途中、水分補給、みかん摂取した時に、子供を背負子に1歳過ぎの子供を乗せたご夫婦に抜かされ、この「一瀬王子」で追いつく。先に彼らが出立する。
一ノ瀬王子から富田川を北上した対岸にある。前出の『田辺領神社書上帳』によれば、冠千早袴着神像を祀り、本山派山伏貴明院が社役を勤めていたという。
途中で、ご夫婦に追いつき、先に行かせてもらう。この暑さで子供背中は大変。しかも急な坂も多い。鮎川王子の手前で、私が道に迷っていると、ご夫婦に追いつかれ、地図を見ながら「こっちですよね」と話、5分くらい話しながら歩く。千葉県から久々の旅行で運動も兼ねて、思い出作りに来られたとのこと。また急な坂道になったので先に行かせてもらった。
この後、富田川沿いを未舗装の道で、「こっちの道で大丈夫かな」と思う箇所、一歩間違えると崖から落ちる箇所、枝が張り出ししゃがまないと進めない箇所など結構難局なところを経過して黙々と歩き続けました。
道中、富田川を渡るための北群橋(ほくそぎ)は、吊り橋になっています。ワイヤーの吊り橋なので安定しているのですが、下の川を見下ろすと正直足がすくみました。ちょっと風が吹いていたので、もちろん揺れます。
熊野詣にまつわる物語でもっとも有名であろう物語が安珍清姫の物語。思いを寄せた僧の安珍に裏切られた清姫が蛇に変化して日高川を渡って追跡し、道成寺で鐘ごと安珍を焼き殺すことを内容。
九十九王子の滝尻王子で、五体王子の一つに数えられた。国の史跡「熊野参詣道」の1部。岩田川(富田川)と石船川(いしぶりがわ)の合流する地点に位置し、2つの急流がぶつかりあって滝のように音高く流れたことに由来すると伝えられる。滝尻王子は熊野の神域への入り口として古くから重んじられ、『中右記』や『源平盛衰記』で「初めて御山の内に入る」と記されている。
足が棒のようになって、やっと初日の目的地に到着。宿は、この滝尻王子の真横にある民宿。休憩所で靴を脱いで、ビールを飲んで1時間くらいマッサージをしながら体を冷やし休める。先ほどで会って会話した子連れが到着して到着を祝福した。お父さんすごい!
滝尻王子の後背にそびえる剣山(371メートル)への急坂の途中、最初に出会う王子。『続風土記』ははっきり廃址と断じており、滝尻王子に合祀されている。
宿を出ていきなりの急な山道を登る途中の王子。ご年配の夫婦が途中いらしたがちょっとこの坂きついよね。まだ元気いっぱい。
上り坂を上ってきて、見晴らしの良い高原に辿り着く。朝、気象条件が揃うと、雲海になるらしい。気分転換になりました。
高原集落から十丈峠へ向かう山道の右手にある。『道中記』(享保7年〈1722年〉)に社殿なしとしてこの王子の名が登場するのが史料上の初出。この付近に熊野本宮の大鳥居があったことによるという言われている。
山道を更にひたすら登ったり、下ったりの繰り返し。「王子」を息抜きになります。
上田和への上りに差し掛かる十丈峠(じゅうじょうとうげ)の付近にある。重點王子の社名で『愚記』が初見で、『中右記』『承元参詣記』に記されている。江戸期には茶店などを営む小集落が近辺にあり、王子神社として祀られていた。明治時代以後は村社とされたが、1908年(明治41年)春日神社(田辺市大塔村)に合祀され社殿は撤去された。
大阪峠(逢坂峠)の麓にあることから名づけられた。逢坂峠は近露側から登るには相当の急坂であることから、古くから大坂と呼ばれている。『続風土記』では社殿はなく碑のみ、『熊野詣紀行』では小祠があったとされている。近露の近野神社に合祀された。
この前後で、スイスからのハネムーンカップルと会ってこの王子のところでお話。いい息抜きです。
九十九王子のひとつ。国の史跡「熊野参詣道」(2000年11月2日指定)の一部。大阪本王子から箸折峠を越えて山を下り、日置川に架かる北野橋のすぐ左手にある。「ちかつゆ」という地名は、花山天皇の熊野詣のとき、現在の箸折峠で食事をしようとして箸がなかったので、萱の茎を折って箸にし(箸折)、そこからしたたり落ちる赤い汁を見て「これは血か露か」と言ったことに由来すると伝えられる。『熊野道之間愚記』で記され、『熊野縁起』にも、「近露の水は現世の不浄を祓う」とあり、参詣に備えて身を清浄にする霊場となっていた。
人里に降りてきた感が半端なかった。川も流れているしちょっと晴れ晴れとした気分になった。ここからまた歩きますが、オーストラリアの2人組に会って、歩きながら少し会話。お先に行かせてもらいます。
近露道中から約2キロメートルほどの国道沿いの土手の草叢のなかにあり、緑泥片岩の碑のみが遺されている。比曽原王子の名は『愚記』や『熊野縁起』に見られる。
雨の中300m通り過ごして、戻って来た。道沿いになく、少し離れた山にありちょっと気づきにくい。日本の男性が一人いて会話。
熊野九十九王子社のひとつ。国の史跡「熊野参詣道」(2000年11月2日指定)および名勝「南方曼荼羅の風景地(2015年10月7日指定)の一部。『中右記』で「続桜」、「熊野道之間愚記」で「継桜」、『熊野縁起』で「続桜」、『九十九王子記』で「次桜」の名が記されている。『紀伊続風土記』が伝えるところによれば、境内は周98間(1間=1.82m)、拝殿(祭神不詳、木製神体あり)の他に見明之明神社・金毘羅・秋葉社があったという。
継桜王子のある野中集落を出て、高尾隧道口を過ぎてまもなく、国道の側方の山中にある。『愚記』で「中の河」なる王子の名、『王子記』には「中河」、『続風土記』には「中川王子碑」とあり、近世には「中川」「中河」と表記された。
中ノ河王子から続く小さな峠にある。『道中記』に「小広尾」なる王子の名が登場するのが史料上の初出。近露の金比羅神社(近野神社)に合祀。
小広峠を下って熊瀬川をわたり、草鞋峠へ登る道の傍らにある。「熊背川王子」の名が見出される史料はわずかに『熊野縁起』1篇に過ぎない。『続風土記』では「小名熊瀬河は小広峠にあり」としている。これらから、小広王子と熊瀬川王子は同一の王子の可能性もある。
この前後で、オーストラリアのご夫婦を会い、案内図について説明。このご夫婦とは、この日の宿でも一緒になり縁を感じる。真後ろに付かれて鼓舞されている感じでファイトが湧いてきた。
この後、迂回路を歩くことになるが、これが結構心が折れそうで、ニュージーランドの2人と先頭を譲りあったりして。途中で雨が上がって来たのでポンチョを抜いて風を体に通して気分転換して山の頂上まで。そこでしばらくお話していると、オーストラリアのご夫婦が追いついてきた。私は先に出発。
岩神峠のふもと、湯川川の源流域の谷間にある。王子の名の初見は、『中右記』の「内湯参王子」、『愚記』の「王子湯河」で、このころに湯川王子の名が定着した。皇族・貴紳の宿所が設けられた。明治末年に社殿を残して金毘羅神社(近野神社)に合祀された。
途中、急なつづらなりの下り坂中心になり、川の流れにでる。ひんやりして心地よい。昔この辺に集落があったらしい。道の発展で、集落は廃墟となった。色々考えさせられます。
三越峠一帯を源流とする音無川(おとなしがわ)の河畔にある。『愚記』に「猪鼻」とあり、『中右記』『頼資卿記』には谷川を数度わたって猪鼻王子に着いたとあるが、その後の熊野詣の衰微に伴って廃絶した。『郷導記』にも、谷川にかかる板橋をわたりながら進んだとあり、ほとんど道筋に変化が無かった。
途中、音無川の川べりに降り、空になったペットボトルに水を入れる。そして、飲む。あー甘くておいしい。さあもう少しで「発心門王子」だ。そこまで行くと人通り、集落がある。
九十九王子のひとつで、五体王子のひとつにかぞえられた。国の史跡「熊野参詣道」(2000年11月2日指定)の一部。発心門と言う語は山岳信仰における四門修行に由来する。四門修行においては、山上の聖地に至る間に発心・修行・等覚・妙覚の4つの門を設け、それらを通り抜けることによって悟りが開かれると説かれた。発心とは発菩提心、すなわち仏道に入り、修行への志を固めることを意味する。すなわち、発心門とは聖域への入り口を意味しているのである。
観光地として、ちょっと熊野古道を楽しむ際のスタート地点。バスの停留所もある。ここまで来ると、本宮までもう少しという気持ちになった。ここまでの道は、迂回路などあり、険しく結構この時点が足が相当疲れている。
『愚記』を根拠に水飲王子の名。中世の参詣記(『中右記』『愚記』)、『縁起』や『王子記』には内水飲王子と明記されている。16世紀末頃までは内飲水と呼ばれていた。『続風土記』には「水呑王子」の名が見られることから、現在の名が定着したのは遅くとも江戸時代以降。
長く厳しい参詣道を歩いてきた参詣者たちが、熊野川と音無川の出会うところにある熊野本宮大社の旧社地(大斎原)の森を、はじめて望むことができたのがこの地である。この付近の坂は地元で一里坂と呼ばれ、伏拝王子の近辺から本宮大社までの距離はほぼ1里(4km)に相当することに由来する地名と考えられる。
本宮大社の旧社地まではわずかな距離し かなく、本宮参拝の直前に身を清める潔斎所としての性格を帯びていたと見られる。江戸時代の神社誌『南紀神社録』には王子社と天神社が現在地にあったと伝えている。
次がゴールだ!という気持ち。それにしても暑い。
田辺市本宮町本宮にある神社。熊野速玉大社・熊野那智大社と共に、熊野三山を構成している。家都美御子大神(けつみみこのおおかみ、熊野坐大神〈くまぬにますおおかみ〉、熊野加武呂乃命〈くまぬかむろのみこと〉とも)を主祭神とする。ユネスコの世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成資産の1つ。社伝によると崇神天皇65年に熊野川の中洲、現在の大斎原(おおゆのはら)の地に創建されたとされている。太陽の使いとされる八咫烏を神使とすることから太陽神であるという説や、中洲に鎮座していたことから水神とする説、または木の神とする説などがある。平安時代の末期には鳥羽上皇、後白河法皇、後鳥羽上皇などが幾度も熊野三山に足を運び、大いに賑わっている。
1889年(明治22年)8月に発生した十津川大水害で流され、現在の地に転移。旧社地の中洲は大斎原(おおゆのはら)と呼ばれ、中四社、下四社と摂末社の祭神を祀る2基の石祠が建立された。
「八咫烏」とは、日本を統一した神武天皇を大和国の橿原(現・橿原市)まで先導したという神武東征の故事に習い、導きの神として八咫烏には篤い信仰がある[5]。八咫烏の「八咫」とは大きく広いという意味である[5]。太陽の化身で三本の足があり、それぞれ天・地・人をあらわす、といわれている
なかなか同じ参道の景色で、長く長く感じられた数キロでした。しかもここに辿り着く最後の400mで道間違えて、倍歩いてしまった。。。。「熊野本宮大社」が見えた瞬間は最高でした。歩き遂げた感動です。左から順番に参拝しました。
水害の旧社地の中洲は大斎原(おおゆのはら)と呼ばれ、中四社、下四社と摂末社の祭神を祀る2基の石祠が建立された。日本一の鳥居を構えている。鳥居には、もちろん「八咫烏」。
実際に目にすると、あまりにもの大きさに驚きました。確かに日本一でしょう。しばし見上げていました。この左手は、熊野川河川敷があります。棒になった足にカツを入れて上って、広さを感じました。鮎釣りの姿が点々と見受けられました。
九十九王子のひとつで、湯の峰温泉の温泉街にほど近い、東光寺の裏手の丘の上にある。国の史跡「熊野参詣道」(2000年11月2日指定)の一部。藤原宗忠は、熊野三山巡拝後に船で本宮に帰着した折に湯の峰に立ち寄り、万病を除く名湯と賞賛している。足利義満の側室、北野殿らの一行による参詣記に、日中に本宮に到着してから、夜に行われる奉幣の前に湯の峰を訪れている例がある。今日でも熊野本宮大社例大祭の湯登神事(毎年4月13日)で湯の峰温泉での湯垢離がある。
宿が「湯の峯壮」から送迎バスで公共バスの停留所まで移動し、バスの運転手の方に「湯峯王子」のことを聞くと、登り口まで案内してくれた。バス停から徒歩5,6分。バス停では、オーストラリアのご夫婦と会話。彼らは、那智まで歩くらしい。気を付けて。
和歌山県新宮市新宮にある神社。熊野本宮大社・熊野那智大社と共に、熊野三山を構成する。熊野速玉大神(くまのはやたまのおおかみ)と熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ)を主祭神とする。2004年(平成16年)7月に登録されたユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』の構成資産・大峯奥駈道の一部。
神代の頃に、神倉山の磐座であるゴトビキ岩に熊野速玉大神と熊野夫須美大神が降り立ち、そこで祀られることとなった。もともと祀られていた所である神倉山は神倉神社となり、また元宮と呼ばれ、当社は新宮と呼ばれる。
朱の艶やかな神社で、熊野三山の2つめ来たぞ!という気持ちになった。本宮から歩きではなくバスで「神倉神社前」で降り、神倉神社から暑い中歩いて到着。
向かって左から順番にお参りしました。
熊野三山の一山である熊野速玉大社の摂社。境内地は国の史跡「熊野三山」の一部、および世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部である。神倉山(標高120メートル)に鎮座。山上へは、源頼朝が寄進したと伝えられる、急勾配の鎌倉積み石段538段を登らなければならない。神倉神社の創建年代は128年頃といわれているが、神話時代にさかのぼる古くからの伝承がある。
最初の参拝場所ですが、やられました。かなりの石段で、登りきるときには息切れ、汗大かきです。でも、見晴らしがよく遠く海が見え、新宮の街が一望できます。速玉の玉が、この神社からのゆわれなので欠かすことのできない場所です。
熊野曼荼羅三十三ヶ所霊場の第23番。境内からは弥生時代の遺跡が発掘されており、熊野における歴史と信仰の最も古い層に関わる地として重要である。平安時代後期から12世紀前半までの中世熊野参詣では、阿須賀神社に参詣することが常であったと見られる。
熊野九十九王子のひとつ。県指定史跡(1959年指定)。神武東征の際に熊野灘で嵐に遭った際、自らの身を投じて嵐を鎮めた2柱の神、稲飯命と三毛入野命を祀ったのが起源であるという。
やっと辿り着いた感があります。気温と今までの疲労で、この先の那智まで歩くことは諦めました。駅に戻ります。
紀伊勝浦に宿泊して、駅前からバスで熊野大社那智大社まで移動。さあ最終日。午後から新宮に戻って新大阪経由で旅を閉じます。
九十九王子の最後の一社である。大門坂登り口にほど近い、夫婦杉からすぐ上部のところにある。江戸時代には社殿があったと伝えられているが、1877年に熊野那智大社の摂社のひとつ児宮として境内に移され、跡地には石碑と庚申塚のみが残されている。
日が変わって、勝浦からバスで那智大社まで行き、帰りにこの大門坂を下ってきました。非常にきれいで、似たところは熊野古道の随所にありましたが、確かに一番整備されていてきれいだと思います。この坂おり切ると修行の旅は終わりです。
熊野古道のかつての面影を、もっとも色濃く残しているところとして知られ、和歌山県道46号那智山勝浦線の那智勝浦町市野々のふもとから那智山に至る1kmほどの石段・石畳の道である。かつて坂の入り口に大門があり、通行税を徴収していたことが名称の由来とされる。
那智山にある天台宗の寺院。ユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』(2004年7月登録)の一部。伝承では仁徳天皇の時代(4世紀)、天竺(インド)から渡来した裸形上人による開基とされ、同上人が那智滝の滝壺で得た金製の如意輪観音菩薩を本尊として安置したという。後に推古天皇の勅願寺となった。
熊野本宮大社・熊野速玉大社と共に、熊野三山を構成する。熊野夫須美大神を主祭神とする。熊野那智大社の社殿および境内地は、ユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』(2004年7月登録)の構成資産の一部。
『熊野権現金剛蔵王宝殿造功日記』によれば孝昭天皇の頃にインドから渡来した裸形上人が十二所権現を祀ったとされ、また『熊野略記』では仁徳天皇の頃に鎮座したとも伝えられる。山中の那智滝を神聖視する原始信仰に始まる。
やっと熊野三山制覇です!朱の建物、気持ちがいいです。また、高台にあるので周りの山々を見渡すことができます。
3重塔と那智の滝を合わせた景観は絵になります。ガイドブックなどでも使われるショット。
飛瀧(ひろう)神社で入館料300円を納めて、階段を上っていくと、滝の近くまで行け、そこに拝所舞台がありたきを 見え上げることができます。そこで、しばし滝の音を聞きながらぼーっとして時を過ごしていました。
飛瀧神社は、熊野那智大社の別宮。那智滝自体が大己貴神が現れた御神体となっており、本殿は存在しない。拝殿もなく、直接滝を拝むこととなる。滝の飛沫に触れることによって、延命長寿の霊験があるという伝説がある。
那智の滝は、滝壺までの落差は133m。総合落差では日本12位だが、一段の滝としては落差140mのラッキベツの滝に次ぐ、落差日本2位。日本の施政権が及ぶ範囲内では落差日本1位である。華厳滝、袋田の滝と共に日本三名瀑に数えられている。
熊野古道では、通過点(王子や神社など)のところどころにスタンプが用意されています。それを押すための『熊野古道中辺路押印帳』が1冊100円で販売されています。
これがモチベーションになります。ですが、今回は途中3か所スタンプが紛失されていました。その時は、ちょっと残念感が出てきます。
中辺路編の押印帳、上記3つを含めると27個のスタンプを集めることができました。区間によってすべて埋まると、申請すると、『完歩証明証』がもらえるそうです。
私の押印帳は、雨と汗でぐちゃぐちゃになってしまいました。。。。
熊野古道中、1千回くらいは見た気がする地図。ネットが使えない場所では印刷された地図は必須です。挑む前は、かなり不安との戦いでしたが、1つ1つ丁寧なコメントのおかげで無事に完歩出来ました。ありがとう。
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